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逝き還る

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急逝した友人の葬儀が終わった。

この数年、お互い忙しくて顔を合わせていなかったこともあって、葬儀が終わった今でも実感がわかない。


棺の蓋を閉める時に、縁にしがみついて泣き止むことができなくなってしまった妹さんの姿が、どうにも印象深かった。


葬式の本質って、やっぱり「弔い」よりも、残された人間の心に区切りをつける為の意味合いが強いのだと思う。

信心は自由だけれど、今日日、極楽浄土や輪廻転生、生者が自己都合で作り上げた『理想と希望のあの世システム』に

何の疑いも持っていない人はいないと思う。(むしろ熱心に信心しているとドン引きされてしまう、という・・・)

とは言え、声を荒らげて完全に否定するほど拒絶しているわけではなく、あったらいいな、とか、

真偽に対しての態度保留とか、あやふやなグレーなものとして、多くの人が心の中に存在させている。


葬式という場では、参加した人たちがそのグレーな『あの世』という仮想世界を共通認”可”することで

一時的に心の平常を手にしているのだと思う。ストレスを乗り越えるために。人間が生み出した知恵の産物なんだろうな。


自分が死んだときは葬式なんて挙げなくて良いと思っていたけれど、どんなに少なくとも『付き合い』がある限り、

生者によって葬式は挙げられる。葬式じゃなくても『偲ぶ会』とか。けじめイベントはほぼ不可避だ。

だったら、思いっきり迷惑をかける葬式でもいいんじゃないだろうか。


実のところ、告別式の参加者はそう多くはなかった。

当日一緒に参列した友人は前日の通夜にも足を運んだそうのだが、その時はかなりの人出だったという。

わかる。今どき、葬式は圧倒的に『通夜』のみだ。義理で行って香典渡して焼香して香典返し受け取って帰る。

楽だもの。楽々感丸出しだもの。寂しいかな。


そんなことを考えたら、自分の時はどうせ俺居ないんだし、昔ながらの手間で面倒のかかる葬式を挙げてもらおうかな、とか考えだしちゃったんです。

式は自宅で、近所の人総出でやってもらおう。鯨幕や祭壇などの舞台設定してもらって、お斎も取り寄せの弁当不可、台所で炊き出し。

人徳がないので近所の人が集まらない可能性が高いな。一筆残して、友人や後輩にもお願いしておこう。

棺の担ぎ出しは手を取り合ってお願いします。荷台でゴロゴロ運ばれてゆくのは寂しいので。

みんな自宅での葬式のやり方なんて忘れちゃったろう。自分も最後に体験したのは伯父の時で20年近く前だ。

あーだったこーだった、あーじゃないこーじゃない話し合いながらドタバタやってほしい。間違っててもいいから。

うわ、めんどくせえ、死ねよ、死んでるけど。そう言われるくらい煩わしくて、でも印象に残る葬式を挙げてもらえれば、けじめイベントとしては大成功な気がする。


喧騒の後に静けさが残ってこそ、祭の本懐だと思うのです。

投稿者 sbifb4 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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